江戸幕府から近代国家として体制が変わった明治時代には、近代国家としての体制や国力を保つために、教育に力が注がれるようになりました。教育水準の向上を図る手段として考えられたのが、学校という制度でした。民間で行われていた寺子屋が、明治政府という“国家”主導のもとで運営されることとなり、子供たちは学校で勉強することが義務付けられました。
しかし、制度としては明治政府という国家でしたが、学校を建てる資金や先生を雇うなどの人件費は、生徒の授業料や地域で寄付金を募ったなかから賄われました。それでも不足する場合は、地域住民の負担となりました授業料も高く、そのために国民の反発も大きなものがありました。フランスの教育制度をそのままとり入れたため、日本の国情に合わず、計画はうまく進まず、そのうえ民衆からの不満の続出しで難航したようです。
明治政府では、「教育勅語」を出しました。内容は、父母への孝行、学問の大切さ、遵法精神、国の為に尽くすことなど、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたもので、武士道の精神に近い道徳精神を勉強し、身に付けさせることを主な目的としてしいました。大学設立に向けての動きも出はじめ、明治2年には、江戸幕府の官立ではただ一つの教育機関だった昌平坂学問所が「大学校」となりました。「欧米に追いつけ追い越せ」の名の元、わずかの間に驚異的な国の発展を遂げた一因のひとつに、日本人の勉学精神があげられています。